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(中日对照)鐘楼にて在钟楼上

来源:考试网   2010-08-04【

鐘楼にて
   ――夜記の二――

 やはり私が厦門(あもい)にいたときであるが、柏生(ぱいしょん)が広東からやってきて、愛而(える)(李逢吉のこと、愛而はLの音訳)君も広東にいるといった。多分、新しい生命をさがし求めてきたのであろうが、いつか長い手紙をK委員に書きおくって、自分の過去と将来の志望を説明したという。
「君は愛而(える)という人のことを知っているかね? 彼は長い手紙を書いてよこしたが、僕はまだ読みおわっていない。実は、このような文学者の態度、長い手紙を書くという、そのことが反革命だ!」ある日、K委員は柏生(ぱいしょん)にそういった。
 そしてある日、柏生は愛而(える)にそのことを話すと、愛而は吃驚してとびあがっていった、
「なんだって?……どうして僕が反革命だというのだ!?」
 厦門(あもい)はちょうど温暖な秋の最中(さなか)で、野生の石榴(ざくろ)の花が山に咲き、黄色い花が――なんという名前か知らない――庭には咲いていた。私は花崗岩の塀にかこまれた建物の階上の一室でこの小さなエピソードを聞くと、K委員の眉根をひきしめた硬ばった顔と、愛而(える)の活発ながらどこか沈鬱をただよわせた若々しい顔が、一度に眼のまえに出現した、またK委員の眉根をひきしめた顔のまえで、愛而(える)が吃驚してとびあがっている場面も想像された、――私は窓のすき間から遠くの空をはるかにながめながら、失笑を禁じえなかった。
 だが同時に前にソ連で有名だった詩人、『十二』の作者ブロークの言葉を思い出した――
 「共産党は詩を作ることには邪魔をしない、だが自分は大作家だと思うことには邪魔になる。大作家というものは、自分の一切の創作の核心は、自分の内部で規律を保っていると感じている。」
 共産党と詩、革命と長い手紙、これはほんとうにそれほど相容れないものであろうか?と私は思った。
 以上はそのとき私が思ったことである。今になって私はまた思う、ここで若干の声明を挿入する必要があると、――
 私はただ変革と文芸とは相容れないことをいっているだけで、当時の広東政府は共産政府であったとか、委員は共産党だとかを暗示しているのではない。そのようなことは私は何も知らないのである。ただ若干のすでに「法の裁き」をうけた人たちは、いままで、だれも彼らのために無実の罪をいい立てるとか、あるいは無実に死んだ亡霊が恨みをのべたということを聞かないところを見ると、きっとほんとうの共産党であったのだろう。中にはまたこういう人たちもあった、つまり一時は片方からそのような名称を頂戴したけれども、のちに双方が顔を合わせ、杯を交して歓談し、それで以前のことはすべて誤解であり、実はもとから合作はできたのだということがわかったということも。
 必要なことはもう終わったから、安心して本題にもどる。さて愛而(える)君はその後まもなく私にも一通の手紙をよこして、もう仕事が見つかったと知らせてきた。手紙はあまり長くなかった、多分「反革命」の濡れ衣をきせられた痛手が跡をひいていたのであろう。だが不平も鳴らしていた、第一に、飯釜の傍に座らされているのは、あじけなくてやり切れない、第二に、いつかオルガンをひいていたら、一人の見もしらない娘がやってきて菓子を一包みくれた、おかげで神経過敏になった、北方の女はあまりにも動きがないが、南方の女はあまりにも活発すぎると思い、「それが気になって」仕方がない、というのであった。
 第一の点については、私は秋の蚊に包囲攻撃をされながら書いた返事のなかには、答えないでほっておいた。およそ眼のまえに飯釜がなければあじけなく思い、苦痛を感じる、これが人情の常である、ところがいまや飯釜を目の前にして、それであじけないのであれば、これはあきらかに革命熱におかされているのである。正直なところ、遠いところで革命がおこなわれ、見も知らない人たちが革命しているのであれば、私は確かに面白がって聞いている、だが――仕方がない、あっさり本当のところをいおう――もしも私の身辺で革命がおっぱじまったり、あるいは私のよく知った人たちが革命に加わっていったりしたら、私はそんなに面白がっては聞かないだろう。誰かが、おまえは命がけで革命に加わらねばならぬというならば、私はもちろん、そうはできないと思い切っていえはしない、だが、もしも私を静かに坐らせてくれて、缶詰のミルクを一杯のませてくれるというならば、私は大ていもっと感激するであろう。しかし、もしもおまえは脇目もふらずに飯釜から飯をよそって食ってだけおれ、といわれたとすれば、それはやりきれたものでない。けれども彼に飯釜から離れて命がけになれ、とはどうも口にだしてはいえない、なぜなら愛而(える)は私の大へんよく知っている知人であるからだ。そこで仙人から伝わる古い手をつかって、つんぼのふり、おしのふりをして、問わず聞かずということにしておくより仕方がなかったのだ。ただ第二点については、猛烈な訓戒を加えておいたが、大たいの意味は、彼が「動きのない」のも「活発」なのも、どちらにも賛成しないのは、女性は生きているのでもなく、死んでいるのでもなく、という態度であるべきだと主張するのと同じであって、これは絶対に間違っている、というのであった。
 およそ一ヶ月あまりの後、私が愛而(える)と同じような夢を抱いて広東にきて、飯釜のそばに腰を下ろしたときは、彼はもうずっと前からそこにはいなかった、あるいは私の手紙もついに受けとらなかったのかも知れない。
 私の住んだところは、中山大学のなかでも一番中央の、最も高いところで、「大鐘楼」と通称されていた。一ヶ月の後、瓜皮(かひ)(帽子の名、西瓜を真中から切ったような型のもの)の帽子をかぶった秘書の口から聞かされたが、ここは最も優遇された住まいで、「主任」クラスでないと住めないところだとはじめて知った。だがその後私がそこを引っ越すと、すぐに一人の事務員が移ってきたという話を聞いて、何のことやらわけがわからなかった。けれども私がそこに住んでいたときは、ともかく主任クラスでなければ住めないところであったのだから、事務員が入ったことを知る日までは、私はいつも感激し、また申しわけないと思っていた。
 だがこの優待室は決して住みよいところではなかった、少なくとも、あまりよく眠れないという欠点があった。夜になると、たちまち十数匹の――二十匹ぐらいであったかもしれないが、確実な数は知ることができなかった――鼠が出てきて、傍若無人に文壇を走り廻った。たべられるものさえあれば、彼らはなんでもたべるし、そればかりか箱の蓋をあけることさえできた。広東中山大学の主任クラスでないと住めない建物の階上の鼠は、何だか特別に利口なようで、私は他の土地では見かけたことがない。朝になるとどうかというと、もう工友(小使をいう)たちが大声で歌をうたう、――私にはわからない歌を。
 昼間にたずねてくるこの省の青年たちは、たいてい非常に好意をもってくれていた。改革に熱心な幾人かのものは、私に広東の欠点について激しい攻撃を加えることを希望した。この熱誠は私を感動させたが、私は結局、まだこの土地の事情についてよく知らないし、それにもう革命はされたのだし、あまり攻撃するようなところもないといって、かんたんにことわった。これは当然、彼らを大へん失望させるものであった、数日もたつと尸一(しーいー)君は『新時代』でこういった――
 「……われわれのうちの数人のものは、彼のこの言葉には甚だ賛成できなかった。われわれは、われわれにはまだ多くの罵られてもいいところがあると考える、われわれは自分たちを罵ろうと思っているのに、まさか魯迅先生にわれわれの欠点が見出せないということがあろうか?……」
 実をいえば、私の話は半分はほんとうである。私がどうして広東を理解し、広東を批判しようと思わないことがあろうか? 如何せん、もう大鐘楼にまつりあげられてからは、工友は私を教授とし、学生は私を先生とし、広東人は私を「外江老(ごあがんらお)」(よそもの)とする、ひとりぼっちの除け者で、どうにも調査のしようはない。そして最大の障害は言葉だった。私が広東を立ち去るまでに覚えた言葉といえば、一二三四……といった数の外には、あらゆる外江老(ごあがんらお)が大ていその風変わりであるために覚えないわけに行かないHanbaran(すべて)と、他地方の言葉を習うあらゆるものが大てい最もたやすく習い覚えることのできる人を罵る言葉Tiu-na-ma(こん畜生の意味だが、母親を犯すという相手を軽蔑した言い方、本選集第五巻『墳』の「『他媽的!』について」参照)の二つだけだった。
 この二つの言葉は時には役に立った。それは私がもう白雲路の住居に越してからのことであるが、ある日、巡査が電灯を盗んだコソ泥棒をつかまえた、家の管理をしていた陳(ちぇん)公はいっしょについて言って罵ったり殴ったりした。さんざん罵っていたが、私はその中でこの二言だけが分かった。だがそれでもう全部が分かったような気がして、心ひそかに考えた、「彼のいっているのは、多分こうであろう、屋外の電灯はほとんどHanbaran彼に盗まれた、だからしてTiu-na-maせねばならないのだと」。そこでなんだかある大問題を解決したような気がして、すぐに安心して座にもどって、再び私の『唐宋伝奇集』の編集をつづけたのである。
 だが本当にそうであったのかどうかは結局のところわからない。私が自分で推測するのはかまわないとして、もしそれでもって広東を論じるのであれば、あまりにも軽率であることを免れないであろう。
 だがただこの二ことについていっても、私はわが師、太炎(たいえん)先生(章太炎をいう)の間違いを発見したのである。先生が日本で私たちに文字学を講義してくれられたときに、こういわれたのを覚えている、『山海経(せんがいきょう)』(昔の地理書)にいう「其の州は尾上に在り」の「州」は女性の生殖器である、この古語は今でもまだ広東には残っていて、Tiuと読む、だからTiuheiの二字は「州戯」と書くべきで、名詞が前にあって、動詞は後にあるのだと。私は先生が後にこの説を『新方言』(章太炎の著書)のなかに書かれたかどうか記憶してないが、しかし今になって考えると、「州」は動詞で、名詞ではないのだ。
 さて私はあまり攻撃すべきところはないといったが、それはたしかに虚言(うそ)である。実はこうだ、当時私は広東に対して愛憎を感じていなかった、それで喜びも哀しみもないし、誉めることも貶すこともなかった。私は夢を抱いて来たのだが、ひとたび現実にぶつかると、たちまち夢の世界から放逐されてしまい、何か索漠たるものが残っただけである。私は広東もつまりは中国の一部であると思った、奇異な花や果物、一風変わった言葉は、旅人の耳目を混乱させはするが、しかし実際は私がこれまで行ったことのある他のところと、ほとんど違いはないのだった。もしも中国が人の世らしくなく画かれた一幅の図であるとすれば、各省の図取りは、実は同じであって、そのちがいはただ使用される色だけのことである。黄河以北の数省は、黄色と灰色で画かれ、江蘇・浙江は淡い黒と淡い緑であり、厦門(あもい)は淡い紅色と灰色であり、広東は濃い緑と濃い紅色である。私はそのときは、なんだかまだあちこち見て廻っていないように思ったので、とりたてていうほどの悪口の言葉もなかったし、もっぱら素馨(ジャスミン)とバナナにばかり注意をうばわれていた。――といってもこれもあるいは後になっての回憶の感覚で、そのころは実はそれほどはっきりしたものではなかったのかも知れない。
 後になると、いささか変わった、しばしば大胆に悪口をいろいろいった。だがそれが何の役にたったであろうか? あるところで講演したとき、私は広東の人民には力がない、だからここは「革命の策源地」になるわけだし、また反革命の策源地にもなるわけだ……といったところ、それを広東語に通訳されたとき、この数句の言葉は削除されたように思った。あるところに文章を書いたとき、私はいった、青天白日旗(せいてんはくじつき)(国民党の旗)を遠くの方へもって行って挿したら、きっと信徒はもっと多くなる、だが大乗仏教と同じように、居士(こじ)(出家しない仏徒)でも仏弟子とみなすようになると、しばしば戒律はゆるんでしまって、仏教の弘通(ぐつう)なのか、仏教の堕落なのか分からなくなる……。だがついにそれは印刷されず、行方不明になった……。
 広東の花と果物は、「外江老(ごあがんらお)」の目には、もちろんやはり珍しいものだ。私がもっとも好んでたべたのは「楊桃(ようとう)」(五斂子(ごれんし)ともいう)で、なめらかで歯切れがよく、酸っぱくてあまい、缶詰にしたものは、本来の味がまるでなくなっている。汕頭(すわとー)にある一種はすこし大きいが、それは「三廉(さんれん)」であって、たべられたものではない。私は楊桃の功徳(くどく)をいつも宣伝するのだが、たべた人はたいてい賛成する。これは私のこの一年間におけるもっとも顕著な成績である。
 鐘楼に住んで二ヶ月目、つまり「教務主任」という紙の冠をかぶってからは、忙しいことになった。学校の大事といえば、恐らく追試試験と授業開始に過ぎるものはないであろうことは、どこの学校でも同じだ。かくて会議を開いてもらい、時間割をくみ、通知書を出し、問題を保管し、試験用紙を配り、……かくしてまた会議を開き、討論し、点数を計算し、席次を発表する。工友(小使)規則では、午後五時以後は仕事をしないことになっているので、一人の事務官が守衛に頼んで手伝ってもらい、夜までかかって、一丈あまりもある席次表の紙を貼り出す。だがその翌日の朝にはもう破られている、かくしてまた発表を書く。かくして議論である、点数の多い少ないの議論、及第かどうかの議論、教員に私心が有る無いの議論、革命青年を優待するのだが、優待の程度について、一方ではこれで優待だといえば、他方ではまだ優待でないという議論、落第を救済するのに、一方で自分の権限外だといえば、他方で自分の権限だといい、一方で方法なしといい、他方では方法ありという議論、試験問題の難易について、一方で難しくないといえば、他方では難しすぎるという議論、それからまた同族のものが台湾にいるから、本人も台湾人とみなし、「被圧迫民族」としての特権を取得できるかどうかの議論、それから人間にはもともと名前はないのだから、、いわゆる偽名、替え玉というものはないという哲学的な議論……。このようにして一日一日と過ぎ去って、そして夜毎に十数匹――あるいは二十匹――の鼠の横行、朝は三人の工友の声高らかな歌声である。
 いま当時の議論を思い出すと、人間はどれほど限り有る生命をもてあそんでいるこことか。だがあのときは別に怨みつらみもなかったが、ただ一つどうもたいへん変てこだと思ったことは、長い手紙をもらうことに対して、だんだん敵視するようになったことである。
 この種の長い手紙は、もとはしょっちゅうもらっていて、一向に特別のこととも思わなかった。だがそのころになってだんだん長いのを嫌うようになり、一枚読みおえても、まだ本題に入ってこないと、イヤになってくる。ときには親しい人が傍にいると、その人に頼んで読んでもらって、手紙の主旨を話してもらったりした。
「ほんとうだ。『長い手紙を書くのは反革命だ!』」と私は思いながら。
 そのとき私がK委員のように眉根をひきしめていたかどうかは、鏡を見ないし、知るよしもない。ただ覚えていることは、私の会議と議論の生涯は、どうも「革命している」とはいえないようだとすぐに自覚して、自分の便宜のために、まえの判定に修正を加えたのである――
「ちがう。『反革命』というのは重すぎる、『不革命』というべきである。それでもまだ重すぎる。実は――長い手紙を書くのは、ただあまりに閑がありすぎるからなのだ」
 ある人は、文化が起こるには、余裕がなければならないという。私の鐘楼での経験によれば、大体それは本当のようだ。閑人のつくった文化は、もちろん閑人にふさわしいものでしかない、近頃ある人々が拳をさすり掌をさすって、大いに不平を鳴らしているのは、まったく何も怪しからんことではない――実は、この鐘楼にしたところで、変てこな建物でないことがあろうか、しかし、四億の男女同胞、在外同胞、異胞のなかには、「一日中たらふく食って、心配することもない」ものもおれば、「一日中大ぜいがやがやして、正しいことなど話しもしない」者もいる。どうしてそれ相当の文芸を作らないのだろうか? いまただ文芸だけについていうのは、範囲がせまくなって、話がわかりやすいからである。さてその結論としてはこうなるほかはない、余裕があっても、創作できるとは限らない、そして創作するには、必ず余裕がなければならない。だから「花よ月よ」は、飢えに泣き寒さに叫ぶものの口からは出てこない、そして「一手で中国の文壇を定める」(陳西瀅が徐志摩をほめた言葉)ことも、苦役する労働者や出稼ぎ人夫には望みもしないことである。
 私はこの説は私にとっては大変好都合だと思う、私は自分がもう長いあいだ筆をとらないことを自分で知っている、だがこのことの罪は多忙にきせられるべきである。
 大体その頃のことだが、『新時代』にまた「魯迅氏はどこにかくれたか」という一文が発表された、宋雲彬(すんゆんぴん)が書いたものだ。文中に次のような私に対する警告があった――
「彼は中大にきたが、ただ彼の『吶喊(とっかん)』の勇気を恢復しないばかりか、また『北方にいたときは種々の圧迫、種々の刺戟をうけたが、ここにくると圧迫と刺戟がないので、何もいうことはなくなった』というのであるらしい。ああ! 異なるかな! 魯迅氏はついに現社会から逃げ出し、牛の角の先へと身をかくしたのだ。旧社会が死んでいく苦痛、新社会が生まれ出る苦痛は、どれほど彼の眼のまえにあるか知れないのに、彼は見て見ぬふりをするのだ! 彼は人生の鏡(ここでは文学をさす、ラデックの語)をしまい込んで、自分を過去の時代にふりもどした。ああ! 異なるかな! 魯迅氏は逃避した」
 そして編集者はまたたいへん思慮深く、ことわり書きをつけて、これは私に対する好意の希望と勧告であって、決して悪意のある嘲笑の文章ではないと声明している。これは私にはよくわかっていることで、読んだときにたいへん感動したことを覚えている。それで上文にのべたようなことを、少し書いて、私は吶喊しないのだけれども、今は議論と会議をやっているところで、一日に一度しか飯を食わないときもあれば、一匹の魚しか食わないこともあるが、それでもまだ勇気は失っていないと声明しようと考えたものだ。「鐘楼にて」というのが予定した題目であった。けれども一つにはやっぱりその議論と会議のために、二つには文章の冒頭に引用してあったラデックの二ことの言葉のために、そのほかまたさまざまなとりとめのない感想が出てきたりして、ぜひ書こうとは思いながらも、とうとう取りやめにしてしまった。その二ことの言葉というのは、――
「最も大きな社会変革の時代においては、文学者は傍観者たるを得ない!」というのである。
 ただし、ラデックの言葉は、エセーニンとソーボリの自殺にからめて発せられたものである。彼の「帰るに家なき芸術家」という一篇がある雑誌に訳載されたとき、私はしばらく考えにふけったものだ。私はこれによって知った、およそ革命以前に幻想あるいは理想をもっていた革命詩人は、自分が謳歌し希望した現実に突き当たって死ぬ運命を多分にもっているし、そして現実の革命が、もしこのような詩人の幻想あるいは理想を粉砕しなかったならば、この革命はやはり布告に書かれた空談に過ぎないことを。だがエセーニンとソーボリをあまり非難してはいけない、彼らは前後して自分のために挽歌を歌ったので、彼らには真実があった。彼らは自分が沈没することによって、革命の前進を証明したのである。彼らは畢竟は決して傍観者ではなかった。
 だが私がはじめて広東にきたときは、時にはたしかにちょっと一時的な安定を感じた。数年まえ北方にいたときは、しょっちゅう党員の圧迫されるのを見たし、青年が捕まって殺されるのを見たが、広東へきてからは、しかしすっかり見なくなった。後になってそれが「天下り革命」の現象でしかないことをやっと悟った、だが夢みていたときは本当に何か気持ちがよかった。もし私がもっと前に「鐘楼にて」を書いていたら、文章もこんなふうにはならなかったかもしれない。如何せんもう現在になっており、それに「反革命打倒」(清党、つまり国民党の共産党打倒をいう)の事実をこの目で見てしまっているので、ありのままの当時の心情は、実際のところどうしてもあとづけることはできないのである。いまのところでは、こう書くよりしかたがないであろう。

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